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ちょっとHな日本の歴史!? 素晴らしい偉人たちは精力もスゴかった!?

公開日: : 最終更新日:2014/04/24 ちょっとHな歴史

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過去、日本には様々な偉業を成し遂げた“偉人”たちがいました。
様々ジャンルで金字塔を築き上げ、歴史のその名を遺した人たちですね。

さて、表の歴史上で語られる偉大なイメージとは裏腹に、「この人ってそんな人だったの!?」と思わずビックリしてしまうエピソードを持った偉人たちも、実は歴史上にいます。

まぁ真実がどうであれ、彼らが成し遂げた偉大なる功績に変わりはありませんが。

今回は、そんなちょっと面白い以外なエピソードを持つ偉人たちを紹介してみたいと思います。

50歳を過ぎてから毎晩セックス三昧!

小林 一茶(こばやし いっさ)

一茶俳句集 (岩波文庫)

江戸時代を代表する俳諧師の一人。

・代表的な句

『雪とけて村いっぱいの子どもかな』
『めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春』
『やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり』

・略歴

一茶は長野県の田舎にある農家の長男として生まれ、3歳の時に実母を亡くし、8歳の時に継母を迎える。
この継母と上手く折り合いがつかず、14歳の時に江戸奉公へ。
江戸での奉公生活は辛く、奉公先を転々としながら、紆余曲折あって、25歳の時に俳諧の師匠について俳諧をスタート。
その後、39歳で父の死、継母・義弟との間に遺産相続問題が勃発、以後12年間にわたってバトル。
色々あったが一茶が50歳の時に故郷・長野へ移住。
そして、一茶52歳の時に28歳の妻を娶ることとなる。

この一茶の何が凄いって、晩年の性欲ぶり!
本当かどうか定かではありませんが、一茶は妻を娶る52歳までは童貞だったのではないかとも噂されています。

一茶は“記録魔”だったようで、様々なことを記録に書き留めていました。
そして結婚後は、毎晩のように妻と性交をした記録が彼の日記に書き留められていたのだとか。

残された日記によれば、結婚後連日連夜の性交に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語障害を起こしても、なお性交への意欲はやむことがなかったとか。

しかも!
毎晩1回とかではなく、5回、3回、3回、5回……みたいな回数で連日連夜!
ちょっとこの性欲ぶりは、女性への負担もありそうですよね。

そして、ここで哀しいエピソードにもなりますが、一茶はこの妻との間に3人の子供をもうけておりましたが、この3人とも、幼い時に早死してしまっているそうで。
なので、子供が欲しい!という執念で連日連夜の性交に及んだのかもしれません。

でも、それにしたって凄い回数の性交です。
日記から読み解くと、夫婦2人だけの生活の際は、夜という時間にこだわらず、朝も昼も交わっていたそうですよ。

この最初の奥さん、28歳で嫁いできた後、37歳の若さで死んでしまっています。
その理由が、痛風がこじれたからだとも、一茶からの連日連夜の性交がキツすぎて衰弱死したからだ……とも言われているんです。
本当のところは分かりませんが……。

その後、一茶は2番目・3番目の奥さんを娶り、彼が死ぬ数日前までセックスに励んでいたのだそうな。
相手が変わっても、一茶の性欲は止まることは無かったんですね。

夜な夜な芸者さんたちと夜の遊び…

伊藤 博文(いとう ひろぶみ)

伊藤博文 近代日本を創った男

・略歴

江戸末期の長州藩に生まれる。
動乱の幕末、尊王攘夷運動に長州藩士として参加。
イギリス留学の実績から英語が堪能だったこともあり、明治維新では様々な要職を任される。
そして、初代内閣総理大臣に就任することに。
その後、合計4度も内閣総理大臣を務めることとなる。
明治天皇からの信頼も厚かった。
大日本帝国憲法を発布し、日清戦争、日露戦争をへて、初代韓国統監へ。
そして、中国にて朝鮮人により暗殺される。

以前の千円札にはこの伊藤さんの顔が描かれていたことでも有名ですね。
当時の日本人なのに英語がペラペラ、そして初代内閣総理大臣に就任したことでとても秀才なイメージがあります。

でもね、「日本の偉人で女性が大好きだったのは誰?」という質問を歴史学者にした場合、ほとんどの方が答えるのが、この伊藤博文!

彼は本当~に女性のことが大好きだったみたいです。
プレイボーイ、女好き、女たらし、絶倫男、日本一の不倫男、などなど、そんな名前が似合うほどだったんだそうですよ。

伊藤は芸者さんが好きで、毎日のように芸者さんの元に通っていたそうな。
それがこじれて、最初の奥さんを離縁させ、2番目の奥さんには芸者出身の美人さんを招いたそうです。

でもね、そんな美人な奥さんがいたところで、伊藤の女好きは止まりません。

彼は40度の熱があっても芸者の元へ通い、両脇に芸者をはべらせて喜んでいたそうな。
そして、仕事で地方に出向いた際は必ずその地方の芸者を呼び、お気に入りが出来ると東京に連れて帰ることも。

吉原にもよく通い、2P・3P当たり前。
馬車の中でもコトを済ませる……なーんて、破天荒な行為も行っていたようです。
日本初のカーセックス実行者は、この伊藤博文であったのかもしれません。

明治天皇から「女遊びもたいがいにしろ!」と怒られたこともあったそうです。

鹿鳴館と呼ばれる当時のセレブの社交界も伊藤が作り出し、その夜会の場でも伊藤は女遊びを繰り返しました。
当時の新聞の三面記事には「博文のいくところ、必ず女あり」とゴシップネタで賑わせていたようです。

なんかもう、やりたい放題ですよね。

でも、それ以上に凄いのが、芸者出身のその奥さん!
伊藤の女遊びに対して、ただの一度も苦言を呈したことがないそうです。

本当に凄い偉人なのは……、この奥さんかもしれませんね……。

 

※参考ソース元

⇒小林一茶 – Wikipedia
⇒伊藤博文 – Wikipedia

(Photo:Norio.NAKAYAMA)

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